名古屋晴明神社参拝記
※【写真】と書いてあるところをクリックすると画像が出ます。それぞれ50〜80KBほどあるので注意!

 まずは、この石碑 【写真】 を見ていただきましょう。そう、言わずと知れた晴明神社の石碑です。その筋の方ならこの神社がどのような神社なのか改めて説明の必要は無いと思います。しかし、なぜだか手前に黒い柵が写っています。
 そう、この石碑は本家、京都の晴明神社ではなく、我が地元、名古屋に存在する晴明神社なんです。場所は名古屋市千種区清明山1丁目6番地 【写真】 、中日ドラゴンズの本拠地、名古屋ドームのすぐそばで、ドームから歩いて10分弱で行ける場所です。周りは閑静な住宅地で、近くには県営住宅も建ち、神社の隣は公園となっています。
 高台に建っているため、まずは階段を登ると、いきなり正面には百度石 【写真】 が。その奥に新社殿新築のため寄付をされた方々の御芳名が書かれた看板が建っています。どうやら最近、社殿が新たに建て直されたようです。この神社は無人の小さな可愛らしいお社で、社務所もありません。しかし、地元の人の手によってきちんと管理されているらしく、境内はとてもきれいです。まずはこの社殿の横に立ててある御時歴が書かれた札 【写真】 を拝見。どうやら安倍晴明公、この地にも御滞在なさり、蝮蛇封じをされていったようです。しかし、これだけ晴明公ゆかりの地が全国に点在するということは、空海上人(弘法大師)同様、その力は昔から有名だったのでしょうね。

 後日、伊藤様から御時歴のコピーを頂きましたので、ここに全文を掲載しておきます。なお、写真でもわかるように原文は縦書きとなっています。

晴明神社 安倍晴明公御事歴

御祭神晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤にし
て幼時より甚だ後賢明な方にて万の道に秀でられ、特に天
文暦学の道に通達し神道自在の妙術を得られた。
 今日我々が日常生活の基準とする年中行事、歴術、占
法等、皆この時を創りとする。
 晴明御霊神として祀られるや、我国陰陽道の祖として広
く世の崇敬を受けられ、祈るに任せて皆々奇偉なる霊験に
浴し、方除守護、火災守護、進学、開業、結婚、病気平癒
等、疑いなきものなり。
晴明神社の起源
寛和二年(九八七)晴明尾張国狩津荘上野邑に来住、長養寺乾
街道北一丁余松樹五、六株あり。
 里人伝えていう「往古安倍晴明住居跡なり」と。晴明
此処に在りし時、当邑蝮蛇多きを見て加持して是を封ず。
是より一村蝮蛇を見ず。
 之が当地晴明神社の起りであるが、現代に至るまでこの神
社の霊験について数々の逸話が語り伝えられている。
☆晴明桔梗印
当社の神紋は俗に晴明桔梗ともいわれ、晴明公の創められた
独特のもので陰陽道に用いられる祈祷呪符の一つである。
天地五行を象どり宇宙万物の除災清浄を表すものなり。

 さて、いよいよお参りする事にしましょう。本殿はやはり最近新築したらしく、とてもきれいです 【写真】 。一見、ただの小さな神社に見えますが、左右に存在する狛犬にちゃんと五芒星が確認できます。しかし、気になったのは正面に写っている御賽銭箱に描かれた赤い五芒星。赤は陰陽五行では火に属し、火剋金といって御賽銭である金を剋してしまいます。つまりは、あまり御賽銭が集まらないのでは・・・という気がしてなりません。私の考えすぎなのかもしれませんが。(笑)
でも、無人の割には境内は掃除も行き届き、地元の方によってよく手入れがされている様子が伺え、嬉しい限りですね。全国に晴明塚と呼ばれる塚はいくつもありますが、ここほど管理がしっかりされている所も珍しいのではないでしょうか。

 その後、千種区、瑞穂区、天白区にある名古屋市立図書館に出向き、様々な郷土史を調べた所、次のような伝聞が伝わっている事がわかりました。

・晴明神社由緒
 寛和2年に花山天皇が譲位し、藤原一族が実権を握ったため、寛和3年(987年)に安倍晴明公が尾張國狩津荘上野邑に来住(一説では流刑にあったとされている)した時、この村にマムシや蛇が多く、被害にあう村人が多いのを見て、加持してこれを封じたのが由来だとされています。江戸時代末期の文献、「張州雑志」ではこう記されています。

晴明屋敷跡 長養寺乾街道北一丁余
松樹五六株あり。里人伝えて言う「往古、安倍晴明住宅跡なり」と。晴明此処に在りし時、当邑蝮蛇多きを見て加持して之を封ず。是より一村に蝮蛇を見ず。然るに近年蝮蛇を見ることあり。村民歎て曰く当邑蝮蛇を除く事既に久し、今 虫の属有ること思わざるの事也と衆議し、長養寺に請いて、彼の趾に標木を立つ。時に安栄戊戍七月八日也。晴明の神霊を勧請し、密噴を修し、法楽をなししより、又再び蝮蛇を見ずとなん。

この文献によれば、晴明公が蝮蛇封じをして以来、この地に蝮蛇は見られなくなったが、江戸時代に入って再び蝮や蛇の被害にあう人が出てくるようになったため、安栄7年(1778年)に晴明神社を建立したところ、また蝮蛇は出てこなくなったとされています。御時歴ではこの説が神社の起りとしています。

 また、晴明公がこの地を通りかかった際に、農夫が田に生えた雑草に苦しんでいるのを見て哀れに思い、草が生えないように呪符によって封じたのが由来という別の説もあります。こちらの説については次のような原文が残されています。

清明塚
在同村、里老伝云、安倍清明過此地、見農夫苦田中多草、書符禁之、爾後其地不生雑草、築塚※之、然不知実否
※はしめすへんに己(ネ己)

しかし、私見ではありますが、どちらの説にせよ本当に晴明公がこの地に来たのではないと思います。どちらの文献も江戸時代に書かれたものであるため、若干信憑性に欠ける気がします。全国各地に伝わる晴明塚伝説や弘法大師伝説と同様、地元の民が御威光を信じ、塚を築いて祭ったものなのではないでしょうか。

・現代に残る晴明塚伝説
 その他にもおもしろい伝聞が残されていました。
昭和に入ってこの地が陸軍第三師団工兵第三大隊の演習用地となった時に、演習の邪魔になるからと晴明塚を壊し、祠を移動させた所、工兵が高熱を出してうなされるということがあり、晴明公の祟りということで、塚を築きなおし、祠を元の場所にちゃんと清めて戻した所、寝込んでいた工兵の熱はうそのように引き、治ってしまったとされています。また、晴明神社の近くには現在県営清明山住宅が建っていますが、その建設の際に同様に塚を壊し、祠を撤去した所、同じ場所で2回も続けて大事故が起きたために、直ちにお祓いをした所、その後不思議にも大きな事故は無くなったと伝えられています。県営住宅が完成後、入居人がこの話を聞き、晴明公をちゃんとお祭りしなおそうということになり、昭和32年(1957年)9月に再興晴明神社建設発起人会が発足し、翌年に完成したお社が愛知県神社庁に登録されたのが現社殿です。その後、最近になって改築され、現在に至ります。

・地名の由来
 「清明山」の地名の由来は、平安時代に安倍晴明公が住んでいらっしゃったためとされています。この地名は江戸時代の文面にも「清命山」として残されていますので、かなり昔からこの名称になっていたようです。


以下に、この記事を執筆する際に参考・引用した文献を挙げておきます。

書籍名
著者名 出版年 出版社 ページ

の順に記載されています。

名古屋叢書 第25巻
名古屋市教育委員会編 1964 ― P38

郷土のしらべ 新編愛知県伝説集
福田 祥男 著 1967 名古屋泰文堂 P96,P112

上野の郷土史
長谷川乙一 1978 学校図書株式会社 P27〜44

千種区の歴史
千種区婦人郷土史研究会 1981 愛知県郷土資料刊行会 P47〜49

千種区の昔話と伝説をたずねて
岡田 弘 1982 自筆・謄写印刷 P65〜70

千種村物語−名古屋東部の古道と町なみ−
小林 元 1984 自費出版 P129〜130

張州雑志 第12巻
愛知県郷土資料刊行会 1976 愛知県郷土資料刊行会 P497〜498


いかがでしたでしょうか?御覧になった皆さんの感想をお待ちしております。



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